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アラン・ラッド・Jr. は、これまでのキャリアを通じ、映画業界における最も革新的で高い評価を受ける経営幹部、プロデューサーとしての地位を確立してきた。彼が手がけた作品は何十億ドルもの興行成績をあげ、その評判が広く知れ渡っている。受けたオスカー・ノミネーションの数は150を超え、そのうち50のオスカーを受賞しているほか、賞賛の声は数限りない。ラッドは1963年にジュディ・ガーランド、ウォーレン・ベイティ、ロバート・レッドフォードのタレント・エージェントとしてキャリアをスタートさせる。5年後ロンドンに移り、エリザベス・テイラー、リチャード・バートン、マーロン・ブランドなどと最初の作品となる9作品を製作。1973年、20世紀フォックスからロサンゼルスに呼び戻されたラッドは3年後に社長に就任。まもなくジョージ・ルーカスを起用して「スター・ウォーズ」の脚本を執筆させる。その結果生まれたシリーズは何十億ドルもの興行収入を記録する世界的な現象となり、映画製作の側面を永久に変えていくこととなった。大成功した「スター・ウォーズ」と「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」のほか「ノーマ・レイ」「オール・ザット・ジャズ」「ロッキー・ホラー・ショー」「エイリアン」そしてメル・ブルックスの「ヤング・フランケンシュタイン」などの作品にも携わっている。1979年、ラッド・カンパニーを設立。「ライトスタッフ」「ポリスアカデミー」「ラブ IN ニューヨーク」そして「ブレードランナー」などを製作し、成功をおさめた。同社名義でラッドとしては初のアカデミー賞作品賞受賞作品となる「炎のランナー」も手がけている。1985年にラッド・カンパニーを解散しMGM/UAの経営に参画。会長兼最高経営責任者として「ワンダとダイヤと優しい奴ら」「月の輝く夜に」「スペースボール」「ウィロー」そして「テルマ&ルイーズ」などのヒット作に携わる。1993年、ラッド・カンパニーを再設立し、「ブレイブハート」で自身2度目となるアカデミー賞最優秀作品賞を受賞する。このヒット作のあとも「ゆかいなブレディー家/我が家がイチバン」「仮面の男」「アンフィニッシュ・ライフ」、そしてまもなく公開のベン・アフレック監督デビュー作、ケイシー・アフレック、モーガン・フリーマン、エド・ハリスが主演する“Gone, Baby, Gone”などを手がける。ラッドの50年にも渡るそのキャリアはいまだ衰えるところがない。

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カナダ、ケベック州モントリオール出身。カナダの大学に初めて映画の授業を導入する。カナダ・シネマテークを共同創設。モントリオール映画芸術学院を創設し、1968年から1995年、学長を務める。長編映画“No More Words”の脚本と製作を担当。カナダ学生映画祭、ケベック国際映画祭を創設。オタワ国際アニメーション映画祭の委員長も務める。彼がケベックに招いたアンリ・ラングロワの意志を引き継ぐジャン=リュック・ゴダール監督は、学生たちへの講義ののなかから「ゴダールの映画史」(1977-1981)を生みだしている。1977年、モントリオール国際映画祭を創設。以来委員長を務める。NISを共同創設。「East meets West on the Silk Road」(2006)の監督・脚本・製作を務める。

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ローマ生まれのピアニストであり、作曲家、オーケストラの指揮者、そしてギリシャ人作曲家マノス・ハジダキスの弟子でもあるニコラ・ピオヴァーニは、シルヴァーノ・アゴスティの“N.P”(1971)とベロッキオの“In the Name of the Father”(1972)で、映画音楽の作曲家としてのキャリアをスタートさせる。今日までに彼が音楽を提供してきた映画監督は、モニッチェリ、モレッティ、トルナトーレ、ジュゼッペ・ベルトルッチ、タヴィアーニ兄弟、フェリーニなど。数多くのイタリア人監督のほかにも、ベン・フォン・ヴェルボング、バーナード・ファーヴル、パル・ガボー、ジョルジュ・シュルイツァー、ビガス・ルナ、ジョス・ステリング、ジョン・アーヴィン、フィリップ・リオレ、エリック=エマニュエル・スミスなど、海外の監督にも130曲以上の音楽を提供してきた。彼はまた、イタリアの多くの人気テレビ番組のサントラやミュージカル音楽も数多く作曲している。自身のオルケストラ・アラコエリやヴィンチェンツォ・チェラーミと共同で設立したコンパーニャ・デラ・ルナと共に、イタリアをはじめ海外にもツアーを行っている。彼はまた歌ものの作曲(ファブリツィオ・デ・アンドレやロベルト・ベニーニにも提供)や室内音楽も積極的に手がけている。
「ジンジャーとフレッド」(1985)と「親愛なる日記」(1993)で1986年と1994年にダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞を受賞。1991年にナストロ・ダルジェント賞最優秀音楽賞、1986年にチャック・ドーロを、1997年には第4回コロンナ・ソノーラ・アワード(サントラ賞)とSIAEキャリア・アワード、さらにロータ賞を受賞している。1999年にはアカデミー賞、2000年にはロベルト・ベニーニ監督の「ライフ・イズ・ビューティフル」(1998)でグラミー賞にノミネートされた。2001年には「息子の部屋」(2001)のサントラでチャック・ドーロとダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞を受賞し、2003年には「ピノッキオ」(2002)でナストロ・ダルジェント賞を受賞している。「灯台守の恋」(2004)はセザール賞にノミネートされた。

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1952年生まれ。脚本家、監督、プロデューサー。1975年会計学専攻の大学生の頃から新聞で短編の執筆、1978年に初めての脚本を手がける。クリエイティブ・スーパーバイザーとして中央電影公司に入り、台湾ニューウェーブを牽引する侯孝賢(ホウ・シャオシェン)や楊徳昌(エドワード・ヤン)両監督と仕事をする。80本以上の脚本を手がけ、80年代の台湾映画を代表するアーティストのひとりとなる。1994年「多桑/父さん」で監督デビュー。トリノ映画祭でグランプリ、テサロニキ映画祭で主演男優賞と国際批評家連盟賞を受賞したこの作品は、マーティン・スコセッシ監督もお気に入りの1本と言及、90年代の最も優れた映画の1本に選んでいる。1996年“Buddha Bless America”の監督と脚本を手がける。カンヌ国際映画祭最優秀監督賞など、国際的な賞を獲得したエドワード・ヤン監督「ヤンヤン/夏の想い出」(2000)の主役(NJ)にも抜擢されている。現在は自身の製作会社「ウーズ・プロダクション」を経営。監督・脚本・製作を手がけ、コマーシャルやテレビ番組にも出演している。

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東京都出身。都立第十高女(現・豊島高校)卒業後、新東宝に入社。1950年、島耕二監督の「窓から飛び出せ」で映画界にデビュー後、成瀬巳喜男監督の「おかあさん」(1952)、今井正監督の「ひめゆりの塔」(1953)、小津安二郎監督の「東京物語」(1953)、溝口健二監督の「近松物語」(1954)、熊井啓監督の「深い河」(1995)、黒澤明監督の「どん底」(1957)「赤ひげ」(1965)「まあだだよ」(1993)などに出演している。1990年、熊井啓監督の「式部物語」でキネマ旬報助演女優賞、日本映画批評家大賞を、「まあだだよ」で田中絹代賞、日本アカデミー最優秀助演女優賞などを受賞した。テレビドラマや舞台の経歴も長く、1996年、宮尾登美子原作のNHKの連続ドラマ「蔵」、1996~1997年、NHK朝のテレビ小説「ふたりっ子」に出演したほか、最近の映画では「阿弥陀堂だより」「自由恋愛」「赤い鯨と白い蛇」(2006.11上映)などに出演している。
1998年秋、紫綬褒章、2004年秋、旭日小綬章を受章。著書に「ひめゆりたちの祈り」(1992年、朝日新聞社刊)がある。

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1934年8月19日生まれ。長野県出身。1957年東京大学文学部フランス文学部卒業後、東映東京撮影所に入社。同年、助監督として携わった小林恒夫監督の「青い海原」で、高倉健と初顔合わせをする。1966年「非行少女ヨーコ」で監督デビュー。同年の「地獄の掟に明日はない」以後、「網走番外地」シリーズのうちの6作、「冬の華」(1978)、「駅/STATION」(1981)、「居酒屋兆治」(1983)、「夜叉」(1985)、「あ・うん」(1989)などの作品で高倉健と共に、数々の傑作を世に送りだしている。最近作は「鉄道員(ぽっぽや)」(1999)、「ホタル」(2001)、「赤い月」(2003)、「憑神」(2007)。
